大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成元年(ネ)3217号 判決 1991年3月14日

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 菅原信夫

國生肇

辺見紀男

右訴訟復代理人弁護士 飯柴政次

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 児玉康夫

竹田真一郎

主文

原判決を取り消す。

被控訴人は、控訴人に対し、別紙物件目録(一)記載の土地及び同目録(二)、(三)記載の各建物につき、東京法務局新宿出張所昭和五九年一一月二九日受付第四三六六七号の所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。

訴訟費用は、差戻し前に生じた費用を含め全部被控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  控訴人

主文同旨

(別紙物件目録(一)記載の土地及び同目録(二)記載の建物についての所有権移転登記の抹消登記手続請求は差戻し後の当審で拡張した請求である。)

二  被控訴人

1  本件控訴及び当審で拡張した請求を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二当事者の主張

一  控訴人の主張

1  控訴人と被控訴人は夫婦であったところ、昭和五九年一一月二四日協議離婚の届出をした。

2  控訴人は、右離婚に伴う財産分与として、控訴人の所有する別紙物件目録(一)記載の土地及び同目録(二)、(三)記載の各建物(以下「本件土地建物」という。)につき、東京法務局新宿出張所昭和五九年一一月二九日受付第四三六六七号をもって被控訴人に対する所有権移転登記(原因同月二四日財産分与)をした。

3  しかし、右財産分与(以下「本件財産分与」又は「本件財産分与契約」という。)は次の理由により無効である。

(一) 非真意の合意

控訴人は、突然、被控訴人から離婚を申し入れられ、気持が動転して冷静な判断ができないまま、被控訴人に迫られて、本件財産分与について記載された離婚協議書に署名捺印したものであり、離婚及び財産分与とも控訴人の真意に基づく合意ではない。

(二) 離婚前の財産分与

仮に、離婚が有効であるとしても、本件財産分与契約は、離婚が成立する前の合意であるから、無効である。

(三) 要素の錯誤

控訴人は、本件財産分与により控訴人に課税されることはないと信じて、これを当然の前提とし、その旨黙示的に表示して本件財産分与契約をしたのであるが、後に控訴人に二億円をこえる譲渡所得税が課税されることが判明した。このような課税を受けるのであれば、控訴人は本件財産分与契約をしなかったはずである。

したがって、控訴人の本件財産分与の意思表示は、その重要な部分に錯誤があり、無効である。なお、右錯誤について控訴人に重大な過失はない。

(四) 詐欺による取消し

被控訴人は、控訴人が本件財産分与により自己に課税されることはないと信じているのを知っていたにもかかわらず、控訴人に課税があることを知りながら、又はこれを容認して、沈黙による欺罔行為により、控訴人との間に本件財産分与契約を成立させたものである。

よって、控訴人は、被控訴人に対し、昭和六二年一一月一六日の差戻し前控訴審における口頭弁論期日において、本件財産分与の意思表示を取り消した。

(五) 停止条件の不成就

本件財産分与契約は、控訴人の全財産を被控訴人に譲渡したものである。したがって、本件財産分与は、これを原因として課税される国税及び地方税を被控訴人が負担することを停止条件としていたと解すべきである。ところが、被控訴人は、本件財産分与により控訴人に課税されることになった税金を支払っていないから、財産分与の効力は生じていない。

4  よって、控訴人は、被控訴人に対し、所有権に基づき、本件土地建物につき、前記所有権移転登記の抹消登記手続を求める。

二  被控訴人の認否及び主張

1  控訴人の主張1の事実は認める。

2  同2の事実は認める。

3  同3の(一)ないし(五)の主張はいずれも争う。本件財産分与契約は有効に成立しているものである。

4  控訴人の主張する本件財産分与契約の無効事由のうち、要素の錯誤の点に関する被控訴人の主張は、次のとおりである。

(一) 本件財産分与契約においては、控訴人に課税されないことは明示的にも黙示的にも表示されていない。

控訴人は、財産分与を受ける被控訴人に課税されることを心配してこれを気遣う発言をしたとされているが、これは、控訴人が前に不動産を取得した際に不動産取得税を支払った経験から、被控訴人が本件財産分与により不動産所得税と登記関係費用を負担することになることを念頭においたものであり、譲渡所得税の課税を受けないことを前提にした発言ではない。

控訴人が譲渡所得税を課されるのであれば本件財産分与契約を締結しなかった、といういわゆる消極的動機は、法律行為の目的それ自体とは何も関係ない。しかも、これは、表意者によって明確に表示されない限り、相手方は容易にこれを認識することができないものである。したがって、このような消極的動機が黙示的に表示されたか否かは、その発言を受けた相手方の立場に立ってその消極的動機を認識しえたかどうか慎重に判断されなければならない。

本件についていえば、本件財産分与契約締結の際の控訴人の発言の趣旨、内容及び控訴人の感情、前後の会話等からして、控訴人は、前記のとおり不動産取得税及び登記費用のみを想定していたものであり、譲渡所得税の課税など全く意識していなかったものであり、控訴人主張の消極的動機の黙示の表示があったとみるべき余地はない。

(二) 自己に課税されないという控訴人の動機についての錯誤は、本件財産分与契約の要素の錯誤たりえない性格のものである。

本件において、財産分与の意思表示と離婚の合意とは不可分一体のものである。被控訴人としては、本件建物に居住して従来どおり子供を養育していくことが、離婚を決意するうえでの絶対条件であり、慰謝料の支払も養育費の給付も求めていない。控訴人との離婚は、本件土地建物の分与があったからこそ成立した関係にあり、控訴人も実際には被控訴人との離婚を望んでいたことは明らかである。

このように、控訴人と被控訴人との間の法律行為の内容は、離婚と財産分与を一体としたものであり、両者を分離して処理することはできないものであるから、このうち財産分与についてのみ、しかもその動機の点にのみ思い違いがあったとしても、右のような性格をもつ本件財産分与契約の要素に錯誤があったとすることは不合理であり、許されない。

(三) 財産分与としてされた不動産の譲渡が譲渡所得課税の対象となることは、確定した判例であり、長期にわたる課税実務である。そのうえ、課税というものは、法律行為があった後にそれを原因としてされるものであり、本質的に法律行為の内容をなさないものである。このような課税上の事項を法律行為の要素とすることは不合理である。

しかも、現代の課税制度は複雑であり、また、課税の具体的内容の変遷も頻繁である。これらの調査、認識は、法律行為をする者の自己責任にゆだねられていると解すべきである。さもないと、裁判上の和解を含めて法律行為の極めて大きな部分が、税務についての思い違いを理由に錯誤無効となってしまう危険が大きく、とうてい法的安定を保てない。

(四) 控訴人が本件財産分与により控訴人に課税されないと信じたことについては、重大な過失がある。

控訴人は、大学の経済学部を卒業し、大手都市銀行の行員として、二九年間にわたり内部事務から外回りまで多様な経験を積んでおり、その職種及び職責上、他人の財産に関与する仕事を遂行してきた。他方、財産分与者に対して譲渡所得税が課されることは、すでに述べたとおり確定した判例及び課税実務であって、右のような税務知識は銀行員として当然備えるべきであり、現に銀行員に対する研修や検定試験において教えられてきている。したがって、控訴人は、その職業、地位及び経歴上当然有すべき知識を欠いていたことになるから、重大な過失があるといえる。

また、控訴人は、被控訴人から離婚の申入れを受けた後、離婚協議書に署名するまでに一週間の期間があったのであり、その間に本件財産分与をめぐる課税問題を自ら調査、検討するなり、専門家に相談するなりの機会があったのに、これを怠ったのであるから、この点においても重大な過失がある。

控訴人は、被控訴人に生活費も渡さず、子供の世話や教育も全く顧みず、自らの不貞により被控訴人との婚姻を破綻に導いたものであり、被控訴人には離婚について何らの責任もないのであって、このような事案において、被控訴人に重過失を認めないことは社会道徳上も公平の見地からも許されないというべきである。

5  控訴人の本件請求は、信義誠実の原則に反し、権利の濫用であって、公序良俗にも背くものであり、許されない。

本件財産分与契約が無効であるとすれば、その結果、財産分与及び慰謝料のいずれの給付約束もない離婚だけが残ることとなる。改めて請求しようとしても、財産分与請求権は除斥期間の経過により消滅しているし、慰謝料請求権は、離婚協議書で放棄し、時効期間も経過していて、被控訴人は何らの法的保護も受けられない。被控訴人が離婚無効の訴えを起こしたとしても、控訴人に登記名義が戻った本件土地建物を保全することは、事実上も法律上もほとんど困難である。このような結果を法が認めているはずはなく、控訴人の請求は法の全体系上認められないものと解すべきである。

また、被控訴人は、差戻し後の控訴審における和解において、本件土地の東側部分七二坪余りを控訴人に返還する旨の和解案を提示したが、控訴人は、これを拒絶した。被控訴人が別紙物件目録(二)の建物(以下建物の特定は同目録の番号による。)で今後も居住していくことを考えた場合には、本件土地を南北に半分に区切ることは本件土地の立地条件及び形状の上で不可能であることから、右和解案を提案したものである。右返還する土地は、東南の角地で二方を道路に接し、残った土地と面積的差はあるが、価値的には等しく、一坪当たりの時価が一五〇〇万円であるとすれば、これを処分することにより譲渡所得税等を支払った後も相当額の現金を手にすることが可能である。ところが、控訴人は、右提案を拒否した。控訴人は、その主張する税負担を免れる機会を自ら放棄したに等しく、それでいてなお課税による錯誤無効の主張を維持するのは、錯誤に藉口してより大きな利益を獲得せんと意図するものである。控訴人の右のような和解に対する態度のほか、そもそも離婚原因が一方的に控訴人側にあること、本件財産分与契約を無効とされた場合に生ずる法的混乱や不公平さ等を考慮すれば、控訴人の請求は権利の濫用等として許されないものというべきである。

第三証拠関係《省略》

理由

一  事実関係

控訴人と被控訴人は夫婦であったところ、昭和五九年一一月二四日に協議離婚の届出がされたこと、右離婚に伴う財産分与として、控訴人の所有する本件土地建物につき被控訴人に対して同月二九日付けで所有権移転登記がされたことは、当事者間に争いがない。右争いがない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  控訴人(昭和一二年八月三一日生)は、昭和三五年四月から株式会社丙川銀行に勤務し、昭和三七年六月一五日、被控訴人(昭和一三年一〇月三一日生)と婚姻して二男一女をもうけ、本件建物(二)に家族とともに居住していた。

なお、本件土地建物は、控訴人が父親から相続して新宿区内に所有していた不動産を昭和四五年に処分(交換)して取得したものである。

2  控訴人は、被控訴人との婚姻後に他の女性と不貞の関係を持ったことがあったが、昭和五七、八年ころ、勤務先銀行の部下の女子行員と関係を結び、家庭をないがしろにして子供にも辛く当たり、昭和五八年七月からは被控訴人に生活費を全く渡さなくなった。このため、被控訴人は、昭和五八年一一月ころには控訴人との離婚を決意し、児玉康夫弁護士に相談していた。

3  昭和五九年一一月一四日、控訴人は、被控訴人の依頼を受けた児玉弁護士に呼び出され、被控訴人からの離婚の申入れを伝えられた。突然の離婚の申入れを受けた控訴人は、勤務先への体面等から離婚は避けたいと思い、即答を避けたが、翌日から仕事を休んで家にこもり数日間ひとりで考えた結果、前記女子行員と再婚して裸一貫から出直す気になり、同月二〇日、被控訴人に対し直接、離婚に応ずる旨を伝え、離婚の条件について尋ねた。被控訴人が、本件建物に残って子供たちを育てたい旨希望したのに対し、控訴人は、これを了解し、本件土地建物全部を被控訴人に分与して、控訴人は家を出ていくことを承諾した(控訴人には、本件土地建物以外には特別の資産はなかった。)。

4  そこで、被控訴人は、児玉弁護士に連絡して離婚協議書を作成してもらい、同月二一日、自宅で控訴人、被控訴人両名が平静裡にこれに署名捺印し、同時に離婚届書にも署名捺印した。右協議書によると、控訴人と被控訴人とが協議離婚することのほか、未成年の二人の子供の親権者は被控訴人とすること、控訴人は被控訴人に対し、本件土地建物、本件建物(二)に現存する家具一切及び控訴人名義の電話一本を分与すること、被控訴人は控訴人に慰謝料の請求をしないことなどが定められた。

5  ところで、右離婚協議書に署名捺印をする際、控訴人は、本件土地建物を取得する被控訴人に税金が課されることを気遣い、大丈夫かと尋ねた。被控訴人は、何とかなるというような返事をした。控訴人は、被控訴人が親せきから援助を受けて右税金を支払うものと理解した。しかし、控訴人も被控訴人も、財産分与としてされた不動産の譲渡が譲渡所得税の課税対象となるとの知識はなく、本件土地建物を財産分与することにより控訴人に課税されるとは全く思っていなかった。実際にも、控訴人には、本件土地建物を財産分与した後に、多額の税金を負担するだけの資力はなかった。

6  控訴人と被控訴人との協議離婚の届出手続及び右財産分与に伴う登記手続は、控訴人から被控訴人に委任されたので、右委任に基づき、同月二四日、離婚の届出がされ、同月二九日、本件土地建物につき財産分与を原因とする被控訴人名義への所有権移転登記がされた。そして、控訴人は身の回りの品を持って家を出た。

7  控訴人は、同年一一月末か一二月初めころ勤務先銀行の上司に対し、被控訴人と離婚したことを報告し、本件土地建物全部を財産分与した旨説明した。税金に詳しかった右上司の注意により、控訴人が丙川銀行内の経営相談所に財産分与をめぐる税金問題を尋ねたところ、財産分与をした者にも譲渡所得税が課税されることがわかった。驚いた控訴人は、更に同年一二月末と翌六〇年一月初めの二回にわたり国税局の税務相談所を訪ね、また、税理士にも聞いたりしたが、本件財産分与により控訴人に対して合計二億円前後の譲渡所得税が課税されることが判明した。

その後、平成二年二月二六日、控訴人は、本件財産分与を理由として、控訴人の昭和五九年分所得税について、本税額一億八六三一万一五〇〇円(本件土地建物の譲渡所得額を五億五九五九万八八〇〇円とし、その税額を一億八五八七万六四五〇円としている。)、無申告加算税一八六三万一〇〇〇円とする甲田税務署長の決定処分を受けた。なお、右譲渡所得に対する住民税も課税されることになる。

控訴人としては、本件財産分与により自分が右のような課税を受けるのであれば、本件財産分与契約のような内容の財産分与をすることはとうてい考えられないことであった。

8  控訴人は、昭和六一年一二月二二日、前記の女子行員との婚姻を届け出、昭和六二年八月一五日に同人との間に長男が生まれた。現在は、丙川銀行を退職して丁原株式会社に勤務し、月額三〇万円ほどの収入を得ている。

他方、被控訴人は、本件建物(二)に居住し、本件建物(三)と本件土地の一部に作った駐車場からの賃料収入及びピアノ教師としての収入で生活している。

以上の事実が認められる。

二  本件財産分与契約の成立

1  前項認定の事実によれば、控訴人と被控訴人との間において、昭和五九年一一月二四日、協議離婚をすることになった際に、財産分与として本件土地建物を控訴人から被控訴人に譲渡する旨の合意が成立したことは明らかである。そして、右離婚及び財産分与の合意が控訴人の真意に基づかないものであったとはとうてい認められない。

2  控訴人は、本件財産分与契約は離婚が成立する前の合意であるから無効である旨主張するが、離婚の合意と同時に本件財産分与契約が成立し、その三日後に離婚の届出がされているのであるから、本件財産分与契約は、離婚の届出によりその効力が生じたものであり、これを離婚成立前の合意であるとの理由で無効と解する余地はない。

三  本件財産分与契約と要素の錯誤の主張

1  要素の錯誤

(一)  前記一で認定したように、控訴人が本件財産分与契約の際に財産分与を受ける被控訴人に課税されることを心配してこれを気遣う発言し、これに対して、被控訴人が何とかなるというような応答をした事実からすると、控訴人は、本件財産分与に伴う課税の点について関心を有していたものであり、被控訴人もそのことを認識していたということができる。しかし、前記認定の事実によれば、控訴人も被控訴人も、離婚に伴う財産分与としてされる不動産の譲渡について、分与者に譲渡所得が生じたものとして課税されることは全く知らず、分与を受ける被控訴人に不動産取得による税金が課されることはあるにしても、分与者の控訴人に課税されることはないと信じていたものであって、そのために、控訴人が被控訴人の税負担を気遣う右発言をしたものと認められるのである。控訴人において自己に課税されないと信じたればこそ本件土地建物全部を被控訴人に分与することを承諾したことは明らかであり、そのことは被控訴人においても理解し得たところであると認められる。

そうであるとすれば、本件財産分与契約に当たっては、控訴人が自己に課税されないことを当然の前提とし、かつ、その旨を黙示的に表示していたものと認めるのが相当である。

そして、前記認定のとおり、本件財産分与により控訴人に約二億円の課税がされることになったが、本件土地建物全部を財産分与した後の控訴人の収入は勤務先から受け取る給与のみであって、右高額の税金を支払うことはできないから、このような課税を受けるのであれば、本件財産分与契約をしなかったであろうと認められる。

以上によると、控訴人の本件財産分与の意思表示には、これにより控訴人が前記の課税を受けることに関して、要素の錯誤があったものといわざるを得ない。

(二)  被控訴人は、本件財産分与の合意と離婚の合意とは不可分一体のもので、離婚を成立させることは控訴人も望んでいたのであるから、財産分与のみを切り離して要素に錯誤があったとすることはできない旨主張する。

確かに、財産分与の合意は、離婚の合意と密接な関連をもち、これに付随するものであるが、一般的にいえば、離婚を成立させた後に別の機会に財産分与の合意をすることも可能であり、財産分与の合意について、離婚自体と切り離して意思表示の瑕疵を論ずることができないものではない。財産分与の合意が取り消され又は無効になっても、当然には離婚の効力に影響しないと解される。そして、本件においては、前記認定のように、被控訴人の方から進んで離婚の申入れをし、控訴人が数日間の考慮の上離婚に応ずることを決めたところで、被控訴人からの条件として、本件建物で子供を養育したいとの希望が出され、控訴人において、自分には課税されることはないとの前提で右希望を受け入れたという経過であり、もし、前記のような高額な課税を受けることが判明していれば、財産分与に関する協議が別の推移をたどったであろうことは容易に推測されるところである。してみると、本件財産分与契約の内容が当時の被控訴人にとって簡単に譲れないものであったとしても、それについて離婚の合意と切り離して意思表示の瑕疵を論ずる余地のないほどに両者が一体不可分に合意されたとみることはできない。

したがって、右の点から本件財産分与契約の要素の錯誤を争う被控訴人の主張は採用することができない。

(三)  次に、被控訴人は、課税上の事項に関する錯誤は法律行為の要素の錯誤にならない旨主張する。

しかし、およそ課税上の事項に関する錯誤は要素の錯誤にならないと解することはできない。財産上の契約において課税に関する法の不知が直ちに要素の錯誤となるものではないことは当然であるが、右法の不知に由来して、ある課税がされること又はされないことが契約の意思決定の重要な動機となり、かつ、その動機が黙示的にせよ表示されている場合には、当該課税上の事項は意思表示の要素となりうるものであり、その点の錯誤が要素の錯誤を構成すると解すべきである。このように解しても、被控訴人の主張するように法律行為の法的安定を不当に損うものとは考えられない。

2  重大な過失

(一)  被控訴人は、控訴人が自己に課税されないと誤信したのは、控訴人の職業、地位、経歴からみて重大な過失がある旨主張する。

《証拠省略》によれば、控訴人は、昭和三五年に戊田大学経済学部を卒業して丙川銀行に入行し、都内の各支店で勤務し、昭和四四年支店長代理となり、昭和五一年から東京事務集中部に勤務していた者であって、その間特に法務や税務を専門とする仕事についた経験はなかったことが認められる。また、財産分与について分与者に譲渡所得税が課されることは課税実務の取扱いであり、昭和五〇年五月二七日の最高裁判所第三小法廷判決以来同裁判所の判例とするところであるが、法律専門家の間においても賛否の結論が分かれており、少なくとも通常の一般人にとっては、財産分与者に譲渡所得が発生するとの理解は必ずしも容易ではないといわざるを得ない。《証拠省略》によると、銀行員を対象とした税務研修や検定等のために発行されている教材又は解説資料の中には、財産分与についての右課税実務の取扱いに触れているもののあることが認められるが、控訴人が本件離婚問題の発生前にこれらの教材又は資料等に接して、一般的知識として右の点を理解していたこと又は当然かつ容易にこれを理解し得たことを認めるべき証拠はない。これらのことを考慮すれば、控訴人が銀行員であったとの事実から、本件財産分与により自己に課税されないと信じたことについて重大な過失があったと認めることはできない。

(二)  次に、被控訴人は、控訴人が離婚の申入れを受けてから本件財産分与契約を締結するまでの間に、財産分与をめぐる課税問題を自ら調査、検討するなり、専門家に相談するなりしなかったのは重大な過失である旨主張する。

しかし、前記認定のように、控訴人は、突然離婚の申入れを受け、数日間家にこもって考え続けた上でこれに応ずる気になり、すぐに本件財産分与を承諾したものであって、このような経過に照らせば、右数日の間に控訴人が財産分与に関する課税問題についてまで自ら調査し又は専門家に相談しなかったことをもって重大な過失とみることは相当でない。

(三)  更に、被控訴人は、控訴人が婚姻を破綻させた有責者であり、社会道徳上も公平の見地からも、重大な過失を認めるべきである旨主張するが、右主張のような事情があるからといって本件において重大な過失を認定すべき理由とはなり得ない。

その他、控訴人が課税されることがないと信じたことについて重大な過失があると認めるに足りる証拠はない。

3  以上のとおりであるから、本件財産分与契約は、要素の錯誤により無効というべきである。

四  信義則違反、権利濫用、公序良俗違反の主張

1  被控訴人は、本件財産分与契約が無効となれば、財産分与及び慰謝料のない離婚が残るだけであり、被控訴人は何らの法的保護も受けられないことになる旨主張する。

本件財産分与契約の錯誤無効が認められた場合には、当事者間で改めて財産分与について協議を行うことになるが、右協議が調わないとき又は協議をすることができないときに家庭裁判所に対して協議に代わる処分を請求することができるかどうかについては、右請求の除斥期間を離婚の時から二年と定める民法七六八条二項ただし書の規定との関係で疑問がないではない。しかし、右規定の趣旨と、本件事案の下において被控訴人に右協議に代わる処分の請求をあらかじめ行わせることは期待できないことを考えると、時効の停止に関する民法一六一条の規定を類推適用する余地があり、本件財産分与契約の錯誤無効が確定した後に行う右協議に代わる処分の請求が前記除斥期間の定めによって妨げられるものとは解されない。また、本件の離婚協議書によると、被控訴人が控訴人に対する慰謝料請求権を放棄する旨の合意をしているが、右合意は、本件土地建物の分与を前提とするものと解されるから、右財産分与が錯誤無効となれば当然に無効となり、その慰謝料請求権の消滅時効期間は本件財産分与契約の錯誤無効が確定した時点から起算されると解すべきである。そして、控訴人が被控訴人との婚姻を破綻させた有責者であること、控訴人の錯誤の原因である譲渡所得税の税負担は、本件財産分与のための費用ともみうるものであるから、これを本件土地建物自体で負担することにすれば、裸一貫から出直すことを決意して本件財産分与契約をした控訴人にとって、実際上意外な経済的不利益を受けることにはならないこと、被控訴人が子供とともに本件建物(二)に居住したいとの強い希望を有していること等の事情は、今後改めて行われる財産分与の協議又はこれに代わる処分において十分斟酌されるべきものである(控訴人も、有責配偶者として被控訴人の生活について十分に配慮すべき責任があること自体は認めている。)。そうであるとすれば、本件財産分与契約の無効を認めることによって被控訴人が財産分与も慰謝料もない苛酷な状態に置かれることになる旨の被控訴人の主張は採用できない。

2  また、被控訴人は、当審における和解の経緯について言及し、控訴人が錯誤に藉口して大きな利益を得ようとしているものである旨主張するが、本件財産分与契約の効力が深刻に争われている訴訟内での和解であることなどを考えると、直ちに控訴人の請求が不当な目的に出たものであると推認することはできない。

3  その他、本件の全証拠をもってしても、控訴人の本件請求が信義誠実の原則に違反し、権利の濫用又は公序良俗違反であると認めるには足りない。

五  結論

以上によれば、控訴人の請求は、当審で追加された請求を含めて理由があるものとしてこれを認容すべきであり、これと異なる原判決は不当であるから、原判決を取り消して控訴人の右請求を全部認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤繁 裁判官 岩井俊 小林正明)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例